小説『ふたたび白衣の未来へ』第1章:忘れかけていた名札

第1章:忘れかけていた名札


「おかえりー」「ただいまー!」

 リビングに響く親子の声。
 佐伯真理はエプロンのポケットからスマホを取り出し、時計を確認した。17時20分。
 今日の夕飯は鶏団子のスープと、冷蔵庫の残り物でどうにかなる。頭の中で段取りを整理しながら、ランドセルを放り投げる息子の背中に「靴下脱いで手洗ってー!」と声をかける。

 それは毎日変わらない風景だった。
 手際よく洗濯物を取り込み、炊飯器をセットしながら、ふと視線が止まる。
 冷蔵庫の横、マグネットで留められた「資格証明書類」のクリアファイル。その中に、少し色褪せた看護師免許証が、何気なくはさまっていた。

 ——もう、使わないと思っていたのに。
 そうつぶやきながら、手を止める。

 看護師を辞めてから、もう8年が経つ。
 最初は「子どもが小学校に上がったら戻ろう」と思っていた。
 でも、時間はあっという間に過ぎて、気づけば周りに「復職したよ」という友人もいなくなった。
 たまに届く医療系の転職案内メール。週5日勤務、夜勤あり、即戦力歓迎——見るたびに胸が詰まった。

 「ブランクあり、週2~3希望、子どもあり」なんて、採る病院あるわけない。
 そう思って、もう一度冷蔵庫の扉を閉める。


 数日後。
 その友人は、突然倒れた。

 高梨美穂——地域の保育園で園長を務める、頼れるママ友だった。
 毎日朝から晩まで働きづめで、「人手が足りないから」としょっちゅう休日出勤していた。
 ある日、発熱を無理して出勤した翌朝、目まいで階段を踏み外して骨折し、救急搬送されたのだった。

 「入院することになっちゃって……なんか、久しぶりに止まった感じ」
 ベッドに横たわる美穂は、点滴をぶら下げながらもいつもの調子で笑っていた。
 「でもさ、私の代わり、今いないのよね。保育園ってさ、現場を離れるって、本当に難しい」

 真理は見舞いの花を花瓶に活けながら、そっとつぶやいた。
 「……病院も、そうだったよ」

 「そうなんだ?」

 「うん。私も、ちょっとした風邪とかでも、なんか気が引けて休みにくかったなって思い出してさ」
 「だから、戻れないって思ってたの。責任を持つって、全部を引き受けることだって、どこかで思い込んでて」

 そのとき、カーテンの向こうから軽やかな足音が近づいてきた。

 「失礼しまーす。佐伯さん、面会時間あと15分ですので、よろしくお願いしますね」

 真理が顔を上げると、そこに立っていたのは、30代前半くらいの小柄な女性看護師だった。
 どこか柔らかくて親しみやすい雰囲気。だが、動きは機敏で、要点だけを丁寧に伝える口調に無駄がない。

 「この人ね、週に2日だけ働いてるんだって」
 美穂が、まるで秘密を暴露するような顔で耳打ちした。

 「……え?」

 「週2正社員っていうんだって。私、最初パートだと思ってたんだけど、違うんだって。ちゃんと正社員で、社会保険もついてて……すごくない?」

 「……そんな働き方、あるんだ」

 自分の胸が、思っていたより強く反応していることに気づいた。
 奥にしまった看護師免許証が、ふっと手の中に戻ってくるような、そんな感覚。

 

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