小説『ふたたび白衣の未来へ』プロローグ

「ふたたび白衣の未来へ」
——朝の光と、読みかけの新聞記事から始まる物語。


 午前7時。
 陽の光が、ブラインドの隙間から静かに差し込んでいた。地方都市の一角にある小さな病院、その2階に構えられた院長室は、今日も変わらず静かだった。壁の時計は、長年の使用で針の音もほとんどしない。

 井上和宏は、湯気の立つコーヒーカップを片手に、デスクに広げた朝刊に目を落とした。
 毎朝変わらない習慣。社会面をざっと見て、医療関連記事を拾い読みし、最後にコラムを読むのが彼のルーティンだった。

 ——だが、今日は少し違った。
 社会面の見出しに、ふと指が止まったのだ。

 「週2日からの短時間正社員制度、医療・介護の現場に広がる」

 「……週2で、正社員?」

 声に出して読んでみてから、少し眉をひそめた。
 記事には、育児や介護、病気などでフルタイム勤務が難しい人たちが、週2~3日の勤務であっても正社員として働ける制度の広がりが紹介されていた。社会保険付き。業務への責任を持ちながら、柔軟に働ける新しい選択肢——と。

 「まさか、うちにも……?」

 井上は新聞を折り返しながら、視線を窓の外に投げた。
 通学途中の中学生が、自転車で坂道を駆け降りていく。
 数年前、ちょうどあのくらいの年齢の息子を持つ看護師が、
 「フルタイムは無理なんです。子どもが熱を出したとき、誰も迎えに行けなくて……」
 そう言って辞表を差し出した場面が、鮮やかに蘇った。

 「すみません」
 「いえ……また戻ってきてくださいね」

 そう返したものの、その後戻ってきたスタッフはほとんどいない。
 いつしか院長自身も、「仕方ない」と割り切る癖がついていた。
 だが本当は、あのとき、何かできることがあったのではないか——。
 そんな後悔が、記事の文字を通して胸の奥をじわりと揺らした。

 「……制度、か」

 記事の下段には、「導入にあたっては労務制度の整備が必要」「社労士の指導のもと導入進む事例も」とあった。
 紹介されていたのは、他県のクリニック。導入の立役者として、ある女性キャリアコンサルタントの名があった。

 池元南。
 聞いたことがある。以前、県の医療セミナーで登壇していたはずだ。

 「……話を聞いてみても、損はないか」

 井上は、重ねた新聞の上に手帳を置いた。
 その隣に、年季の入った「職員リスト」の冊子が横たわっていた。
 最後に“佐伯真理”と記された行は、やや色あせていたが、まだ消えてはいなかった。