美容編
第11話
「社長、お時間いいですか。」
営業が終わり、最後のお客様を見送ったあとだった。
神崎は、一瞬だけ胸が締めつけられた。
最近、この言葉を聞くたびに思う。
また退職の相談だろうか。
「もちろん。」
バックヤードの小さなテーブルに向かい合って座る。
目の前にいるのは藤井陽菜だった。
少し緊張した表情をしている。
神崎は心の中で覚悟した。
「実は……。」
陽菜が口を開く。
「辞める相談ではありません。」
神崎は思わず笑ってしまった。
「顔に出てました?」
「少しだけ。」
二人とも笑った。
張りつめていた空気が少しだけ和らぐ。
「それで、今日はどうしたの?」
陽菜は少し考えてから話し始めた。
「私。」
「美容師を続けたいんです。」
「うん。」
「でも。」
「結婚もしたいです。」
神崎は静かにうなずく。
「子どもも欲しいです。」
「うん。」
「親も、いつか介護が必要になるかもしれません。」
「でも。」
「美容師も続けたい。」
神崎は何も言わずに聞いていた。
「今までは。」
「どっちかを選ばなきゃいけないと思ってました。」
「美容師か。」
「人生か。」
「でも。」
陽菜は店内を見回した。
彩が後輩へカラーのアドバイスをしている。
美咲は予約表を確認している。
翼は閉店後にもかかわらず、お客様から届いたメッセージに返信していた。
「彩さんを見てたら。」
「違うのかなって。」
「美容師を続けながら人生を歩いてもいいんじゃないかって。」
神崎は少し照れくさそうに笑った。
「実はな。」
「俺も最近まで。」
「経営者か。」
「美容師か。」
「どっちかだと思ってた。」
「え?」
「でも違った。」
「社長でありながら美容師でもいい。」
「店長でありながら母親でもいい。」
「美容師でありながら父親でもいい。」
「人って、一つじゃないんだよな。」
陽菜は静かに聞いていた。
「社長。」
「ん?」
「この店。」
「もっといろんな働き方ができるようになりますか?」
神崎は少し考えた。
「まだ分からない。」
「でも。」
「そういう店にしたい。」
その言葉に、陽菜は安心したように笑った。
その翌週。
池元南と津森真彦を交えた二回目のミーティングが開かれた。
神崎はスタッフ全員に向かって話し始める。
「今日は。」
「制度の話じゃありません。」
みんな顔を見合わせる。
「この店の未来の話です。」
ホワイトボードには大きく一行だけ書かれていた。
『美容が好きな人が、一生働き続けられる店』
「この言葉。」
「最初は俺一人で書いた。」
神崎は少し笑う。
「でも。」
「今は違う。」
「みんなで作る言葉にしたい。」
美咲が立ち上がる。
「私は。」
「店長として。」
「後輩が辞めない店を作りたいです。」
翼が続く。
「独立だけが夢じゃないって言える店にしたい。」
彩も笑顔で話す。
「戻ってこられる店。」
「そんな場所があるって、もっとたくさんの人に知ってほしい。」
陽菜は少し恥ずかしそうに言った。
「私は。」
「十年後も。」
「ここで美容師って楽しいって言っていたいです。」
神崎は、その言葉を聞きながら胸が熱くなった。
この数か月。
求人のことばかり考えていた。
辞める人のことばかり考えていた。
でも。
本当に向き合うべきだったのは、
今、ここで働いている人たちの未来だった。
ミーティングの最後。
池元が静かに言った。
「神崎さん。」
「はい。」
「制度は完成しましたか?」
神崎は首を横に振った。
「いいえ。」
「まだ始まったばかりです。」
池元は笑顔でうなずく。
「その答えで十分です。」
帰り際。
神崎は店の入口に立ち、営業中の看板を裏返した。
そこには閉店ではなく、
明日もまた、この店を開ける理由が見えている気がした。
それは売上でも、求人でもなかった。
誰かが、美容を好きでい続けられる場所を守ること。
そのために、自分はこの美容室を経営している。
ようやく、その答えが見つかった気がした。