美容編
第10話
「おはようございます。」
朝九時。
少し緊張した声が店内に響いた。
「おはよう!」
一番大きな声で返したのは、藤井陽菜だった。
「彩さん、お久しぶりです!」
「久しぶり。」
中村彩は少し照れくさそうに笑った。
三年ぶりの制服。
三年ぶりの店。
鏡の位置も、セット面も変わっていない。
でも、自分だけが少し変わった気がしていた。
「緊張してる?」
店長の美咲が声を掛ける。
「すごく。」
「みんな最初はそうだったよ。」
その一言で少し肩の力が抜けた。
神崎が全員を集める。
「今日から彩さんが戻ってきます。」
拍手が起こる。
「ただし。」
神崎は続けた。
「今日から元通りじゃない。」
「焦らない。」
「無理をしない。」
「できることから。」
スタッフ全員がうなずいた。
以前の神崎なら、
「早く勘を取り戻そう。」
そう言っていたかもしれない。
でも今日は違う。
「今日はシャンプーとカラー補助だけお願い。」
「はい。」
彩はほっとした表情を見せた。
営業が始まる。
「いらっしゃいませ。」
その声も少し緊張していた。
最初のお客様は、田中真由美だった。
二十年以上通っている常連さん。
彩を見るなり目を丸くした。
「あら!」
「彩ちゃん!」
「お久しぶりです。」
「戻ってきたの?」
彩は少し照れながら答えた。
「はい。」
「週二日だけなんですけど。」
真由美は笑った。
「十分よ。」
「会えただけでうれしい。」
その言葉に、彩の目が少し潤んだ。
シャンプーを終えたあと、
真由美がぽつりと言った。
「やっぱり。」
「彩ちゃんのシャンプー、気持ちいいわ。」
彩は思わず笑顔になる。
「あ、そうだ。」
真由美は続けた。
「前に切ってもらったときも思ったけど。」
「彩ちゃんって、人の話を聞くのが上手よね。」
「髪を切ってもらいに来てるんだけど。」
「いつも心まで軽くなるの。」
その言葉は、技術試験では測れない評価だった。
昼休み。
陽菜が隣に座る。
「彩さん。」
「はい?」
「私、今日気づいたことがあります。」
「何?」
「美容師って。」
「髪を切る人じゃないんですね。」
彩は笑った。
「急にどうしたの?」
「お客様。」
「彩さんと話してるだけで、すごく楽しそうでした。」
「私、あんな美容師になりたいです。」
彩は少し考えてから答えた。
「私もね。」
「若い頃は、カットばかり考えてた。」
「でも。」
「お客様って。」
「髪だけじゃなくて。」
「その日一日を気持ちよく過ごしたくて来てくださるんだよね。」
陽菜は静かにうなずいた。
午後。
彩は久しぶりにハサミを握った。
神崎がモデルになる。
「社長?」
「今日は俺で練習。」
店内に笑いが起きる。
「失敗したらどうします?」
「帽子かぶる。」
さらに笑いが起きる。
少しだけ震えていた手が、
一回、
二回とハサミを入れるたびに落ち着いていく。
神崎は鏡越しに彩を見ながら言った。
「戻ってきたね。」
彩は首を横に振る。
「まだまだです。」
「いや。」
神崎は笑う。
「技術じゃない。」
「笑顔が戻った。」
その一言に、彩は思わず涙ぐんだ。
閉店後。
神崎は一日の売上表を見ていた。
売上は普段とほとんど変わらない。
でも。
店の雰囲気が違う。
笑い声が増えた。
会話が増えた。
スタッフ同士が助け合っていた。
神崎は売上表を閉じた。
「今日、一番増えたものは。」
誰に言うでもなくつぶやく。
「安心だったのかもしれないな。」
その様子を、美咲が少し離れたところから見ていた。
「社長。」
「ん?」
「彩さん。」
「週二日ですよね。」
「うん。」
「でも。」
美咲は店内を見回した。
「今日、一番この店を明るくしてくれた気がします。」
神崎は静かにうなずいた。
働く時間は短くても。
その人がいることで生まれる価値は、
時間では測れない。
そんな一日だった。