美容編
第8話
数日後。
神崎は、一通のメッセージを送っていた。
「もし時間があったら、一度お茶でもしませんか。」
送り先は、中村彩だった。
すぐに返信が来た。
「もちろんです。」
休日の午後。
店の近くのカフェで二人は向かい合っていた。
彩は少し緊張した様子だった。
「突然ごめんね。」
「いえ。」
神崎はコーヒーを一口飲んでから切り出した。
「この前。」
「店で『また働けたら』って言ってたよね。」
彩は照れ笑いを浮かべた。
「あれは独り言です。」
「本音でしょ?」
少し沈黙が流れた。
「……はい。」
「本音です。」
神崎はまっすぐ彩を見た。
「戻ってこない?」
彩は驚いたように顔を上げた。
「え?」
「週二日でもいい。」
「半日でもいい。」
「まずは、できるところから。」
彩は何も言わなかった。
神崎は続ける。
「今、新しい働き方を考えてる。」
「まだ何も決まってない。」
「でも、彩みたいな人が戻って来られる店を作りたい。」
彩はうつむいたまま、小さく笑った。
「社長らしいですね。」
「え?」
「昔から。」
「みんなのことばっかり考えてる。」
神崎も笑った。
「そうかな。」
「そうですよ。」
また沈黙が流れる。
彩はコーヒーカップを見つめながら話し始めた。
「本当は。」
「毎朝、お店の前を通るんです。」
神崎は驚いた。
「え?」
「保育園の送り迎えの途中なんです。」
「だから。」
「お店を見るたびに。」
「今日は誰が働いてるかなって。」
「忙しそうだなって。」
「思ってました。」
神崎は何も言えなかった。
彩は続ける。
「美容師を辞めたこと、一度もないんです。」
「家でも子どもの前髪を切ると、やっぱり楽しい。」
「友達に頼まれて切ることもあります。」
「ハサミを持つと落ち着くんです。」
その笑顔は、現役の美容師そのものだった。
「じゃあ。」
神崎はゆっくり言った。
「戻れるじゃないか。」
彩は首を横に振った。
「戻れません。」
「どうして?」
「技術です。」
神崎は少し驚いた。
「三年も現場を離れました。」
「流行も変わりました。」
「カラーも薬剤も変わってます。」
「SNSで見る美容師さんはみんな上手で。」
「私なんて……。」
彩は言葉を飲み込んだ。
「怖いんです。」
神崎はその言葉を聞いて、初めて気付いた。
子育てじゃなかった。
時間でもなかった。
本当に彩を止めていたのは、
自信だった。
「彩。」
「はい。」
「新人だった頃を覚えてる?」
彩は笑った。
「シャンプーで毎日怒られてました。」
「カラー剤も何度もこぼした。」
「カットなんて。」
二人とも笑ってしまった。
「でも。」
神崎は穏やかに言う。
「誰も最初から上手じゃなかった。」
「そうですね。」
「だから。」
「もう一回、一緒に練習しよう。」
彩は神崎を見つめた。
「週二日働いて。」
「残りの日に少しずつ勘を取り戻せばいい。」
「最初から百点じゃなくていい。」
「お客様もスタッフも、みんなで支える。」
彩の目に涙が浮かんだ。
「そんなこと……。」
「できますか?」
神崎は笑った。
「実は。」
「俺も分からない。」
彩が吹き出した。
「でも。」
「できる方法を探したい。」
「美容師を辞めなくていい店を作りたい。」
その言葉は、以前よりずっと自然だった。
彩はしばらく黙っていた。
そして、小さくうなずいた。
「一つだけ。」
「条件があります。」
「何?」
「私だけ特別扱いしないでください。」
神崎は笑った。
「もちろん。」
「戻るなら。」
「ちゃんと、この店の一員として働きたい。」
「週二日でも。」
「美容師として。」
神崎は大きくうなずいた。
「ありがとう。」
店へ戻る途中。
神崎は信号待ちで空を見上げた。
彩が戻る。
それは一人の復職ではなかった。
この店の未来が、
少しだけ動き始めた瞬間だった。