美容編
第1話
「少し、お時間いただいてもいいですか。」
営業が終わり、店内の片付けも一段落した頃だった。
店長の佐伯美咲が、少し硬い表情で声をかけてきた。
「どうした?」
神崎健一は、カルテを閉じながら顔を上げた。
美咲は一枚の封筒を差し出した。
「藤井さんからです。」
その瞬間、神崎は何も言えなくなった。
白い封筒には、見慣れた文字で書かれていた。
退職届
今年に入って、三人目だった。
神崎は封筒を開くこともできず、しばらく黙っていた。
店内にはドライヤーの音もなく、エアコンの風だけが静かに流れている。
「理由は……?」
ようやく絞り出した言葉に、美咲は少し困ったように笑った。
「美容師を辞めるわけじゃないそうです。」
「え?」
「この働き方では続けられないって。」
神崎は思わず天井を見上げた。
また、その言葉だった。
「続けられない。」
辞めたいわけじゃない。
美容師が嫌いになったわけでもない。
店が嫌いなわけでもない。
でも、続けられない。
その言葉だけが、ここ数年何度も繰り返されていた。
「何か、俺が言ったか?」
「違います。」
「店長が厳しかった?」
「それも違います。」
「人間関係?」
「それも違うと思います。」
美咲は首を横に振った。
「じゃあ、何なんだ……。」
答えは返ってこなかった。
神崎自身も分からなかったからだ。
給料は地域では決して低くない。
休日も昔より増やした。
営業時間も短くした。
営業時間後のレッスンも、毎日ではなくなった。
昔、自分が修業していた頃と比べれば、ずいぶん働きやすくしたつもりだった。
それでも、人は辞めていく。
美咲が静かに言った。
「社長。」
「うん。」
「今の子たちは、昔みたいに楽をしたいわけじゃないと思うんです。」
神崎は黙って聞いていた。
「ただ……。」
美咲は少し考えながら続けた。
「美容師は好き。でも、この働き方じゃ続けられないっていう人が増えてる気がします。」
その言葉が胸に刺さった。
神崎は美容学校を卒業して二十五年。
アシスタント時代は朝から晩まで練習した。
先輩に叱られたことも数え切れない。
休みの日も講習会へ行った。
それでも辞めようとは思わなかった。
いや、思えなかったのかもしれない。
「独立するまで頑張れ。」
それが当たり前だった。
だから、自分もそうやって店を作ってきた。
スタッフには同じ思いをさせたくない。
だから休みも増やした。
給料も見直した。
できることはやってきた。
それなのに、なぜだ。
閉店後の店内を見回す。
鏡が並ぶ店内。
昼間は笑顔でいっぱいだった場所が、今は静まり返っている。
この店を作った日のことを思い出した。
「みんなが長く働ける店を作ろう。」
独立した日に、そう誓った。
売上日本一でもない。
店舗数を増やしたいわけでもない。
スタッフが笑って働き、お客様も笑って帰る。
そんな美容室を作りたかった。
その思いだけは、今も変わっていない。
なのに。
なぜ、人は残らないのだろう。
そのとき、美咲がぽつりと言った。
「社長。」
「なんだ?」
「一度、外の人に相談してみませんか。」
「外?」
「はい。」
「経営のことじゃなくて。」
「働き方のことを。」
神崎は少しだけ笑った。
「美容室のことは、美容師にしか分からないよ。」
そう言いながらも、その言葉には以前ほど自信がなかった。
もしかすると。
美容室だから見えなくなっていることが、あるのかもしれない。
神崎は、退職届をもう一度見つめた。
まだ封は開いていない。
開けば、一人の美容師がこの店を去る現実を認めることになる。
しばらくして神崎は、小さく息をついた。
「……まずは、藤井さんと話そう。」
その言葉に、美咲は静かにうなずいた。
その面談が、この美容室の未来を大きく変えることになるとは、まだ誰も知らなかった。