福祉・介護士編|番外編 ここだけの話

福 祉 ・ 介 護 士 編

番 外 編

ここだけの話

セミナーがはねたあと、会場の近くの、小さな小料理屋の座敷に、五人が集まっていた。

「では、あらためて。おつかれさまでした」

池元南が音頭を取り、ビールのグラスが、かちりと触れ合った。登壇のあいだ、背筋を伸ばしていた三人の顔も、一杯目を飲み干すころには、ずいぶんとほどけていた。

「……いやあ、壇上ではいい話をしましたけどね」

最初に口を開いたのは、介護施設長の宮本だった。枝豆をつまみながら、少し照れくさそうに笑う。「ここだけの話、うちがキャリアパス加算に手を出したのなんて、最初は完全に、カネ目当てですよ」

「宮本さん、正直すぎ」高梨美穂が吹き出した。

「だって、そうでしょう。介護報酬は公定価格だ。うちの一存じゃ、単価は一円も上げられない。増やせるのは加算だけ。事務員には“雛形コピペで通りますよ”って言われて、その通りにしてたんだから。……人を活かす仕組みだ、なんて、あとから知った顔で言ってるだけです」

「でも、それでいいんじゃないですか」と、津森真彦が穏やかに言った。「入り口がカネでも、出口が人になれば。むしろ、きれいごとから入った制度のほうが、途中で息切れするものです」

井上院長が、日本酒に切り替えながら、うなずいた。「うちもね、ぶっちゃけ、きれいな話ばかりじゃなかったんですよ。週2正社員なんて言い出したとき、理事会は大反対でね。“そんな中途半端な雇い方があるか”って」

「ああ、それ、わかります」宮本が身を乗り出す。

「おまけに、フルタイムで頑張ってる看護師からも、“不公平だ”って声が出た。週2で正社員なら、私たちのこの残業はなんなんだ、って。……正論ですよ。返す言葉がなかった」

「で、どうしたんですか」高梨が聞く。

「役割を、時間から切り離したんです。津森先生に知恵を借りてね。“長くいること”を評価するんじゃなくて、“何を担うか”で評価する。そう決めたら、少しずつ、収まっていった。……まあ、一年はもめましたけどね」

小さな笑いが起きた。

高梨も、猪口を置いて言った。「うちなんて、もっと生々しいですよ。週2の先生に担任補助をお願いしたら、保護者から電話が来たんです。“毎日いない先生に、うちの子の何がわかるんですか”って」

「うわ」宮本が顔をしかめる。

「でもね、その週2の先生が、いちばん最初に気づいたんですよ。ある子の、ほんの小さな変化に。毎日見ている私たちが見落としていたことを、たまに来るその先生が、すくい上げた。……それを保護者に話したら、電話は、ぴたっと止みました」

「時間の長さじゃ、ないんですよねえ」宮本が、しみじみと言う。

「その一瞬に、ちゃんといられるかどうか、だ」井上が続けた。三人が、顔を見合わせて笑う。それぞれ違う現場で、まったく同じ壁にぶつかって、まったく同じところに、たどり着いていた。

「しかし」と、宮本がビールを注ぎながら言った。「行政に聞いても何もわからない、ってのは、どこも一緒なんですね。うちなんか、市の若い担当者に“これ何のためですか”って聞いたら、気の毒なくらい黙りこんじゃって」

「国も、現場に理念を届ける気があるんですかねえ」高梨がため息をつく。

「まあ、そこを嘆いても始まらない」津森が笑った。「制度は、しょせん箱です。中身は、現場が入れるしかない。皆さんは、それをやった。それだけのことです」

池元が、静かにグラスを置いた。「私、思うんです。この三人が制度を動かしたきっかけって、たぶん、制度そのものじゃないんですよね」

「というと?」

「辞めさせたくなかった、誰かの顔が、先にあった。院長には、もう一度白衣を着てほしい人がいた。園長には、園庭に戻ってきてほしい先生がいた。宮本さんには……」

「……佳代さんが、いましたね」宮本が、ぽつりと言った。「辞めるって決めた日に限って、利用者さんに“いてくれてよかった”って言われる、ってこぼしてね。あの顔を見てたら、なんとかしたくなっちまって」

しばらく、誰も何も言わなかった。座敷の外を、電車が通り過ぎる音がした。

「……さっき津森先生が言った、“入口はカネでも、出口が人になる”ってやつね」宮本が、ぽつりと言った。「あれ、ほんとうに、その通りだと思いますよ。制度って、案外、面白いもんですね。金勘定で始めたはずが、気がついたら、一人の職員の顔を思い浮かべてるんだから」

津森が、静かに微笑んだ。

「……なんか、しんみりしちゃいましたね」高梨が笑って、空気をほぐした。「飲みましょう、飲みましょう」

「そうだ、飲みましょう」井上がグラスを掲げる。「次は、どの業界の番ですかね。運送か、建設か」

「どこも人手不足ですからねえ」宮本が笑う。「あ、そうだ津森先生。今日のこの集まり、“異業種による事例研究会”ってことにして、うちの加算の実績に……」

「宮本さん」津森が、すかさず遮った。「それは、さすがに雛形コピペの発想です」

座敷に、大きな笑い声が響いた。

窓の外の夜は、まだ浅い。それぞれの現場に、それぞれの明日が待っている。けれど今夜だけは、旧知の友のように、五人はただ、笑い合っていた。

制度の話は、もう、していなかった。

これで『ふたたび介護の未来へ』は完結です。
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