美容編
特別編
午後三時。
駅前の小さな喫茶店。
窓際の席で、池元南はアイスコーヒーを飲んでいた。
「お待たせしました。」
津森真彦が資料の入った鞄を持って現れる。
「今日も忙しそうですね。」
「社労士は年度が変わると、どうしてもね。」
二人は笑いながら席に着いた。
しばらくは他愛もない話。
天気のこと。
最近読んだ本のこと。
そして津森が切り出した。
「美容室、落ち着きましたね。」
池元は静かにうなずいた。
「神崎さんが変わりましたから。」
「最初は制度の話ばかりでした。」
「ええ。」
津森も笑う。
「『週2正社員を導入すれば人が集まりますか』って。」
「よく聞かれる質問です。」
池元はコーヒーを一口飲む。
「でも。」
「最後は一度も制度の話をしませんでしたね。」
津森もうなずいた。
「そうですね。」
「最後に話していたのは、店の未来でした。」
しばらく沈黙が流れる。
窓の外では、小学生が笑いながら横断歩道を渡っている。
池元がぽつりと言う。
「制度って、不思議ですよね。」
「どうしてです?」
「制度だけ作っても、人は幸せにならないんです。」
津森は笑った。
「社労士としては耳が痛いですね。」
「そんなことありません。」
「制度は必要です。」
「でも。」
「制度は、人の想いを形にする道具でしかありません。」
津森は静かにコーヒーカップを置いた。
「神崎さんは、その順番が変わりました。」
「ええ。」
「最初は制度を探していました。」
「最後は、店の未来を語っていました。」
二人は顔を見合わせる。
それだけで十分だった。
津森が思い出したように笑う。
「覚えてます?」
「何をです?」
「井上先生。」
池元も笑った。
「ああ。」
「看護師編ですね。」
「最初は。」
『人が足りないんです。』
「でした。」
「最後は。」
池元が続ける。
『地域の看護を守りたい。』
「でしたね。」
津森は指を折りながら数え始める。
「井上先生は地域医療。」
「高梨園長は子どもたち。」
「神崎さんは美容師。」
「みんな最初は人手不足の相談でした。」
「でも。」
池元が続ける。
「最後は、人の話になる。」
津森は大きくうなずいた。
「だから私は、この仕事が好きなんでしょうね。」
また少し沈黙が流れる。
池元は窓の外を眺めながらつぶやく。
「次は、どんな業界でしょう。」
津森は笑う。
「どこでしょうね。」
「でも。」
「きっと同じですよ。」
「何がです?」
「最初は。」
『人が足りない。』
そう言って相談に来る。
でも本当に困っているのは、
人が足りないことではない。
人が働き続けられないこと。
そのことに気づいたとき、経営者の表情は少し変わる。
池元が時計を見る。
「そろそろ行きましょうか。」
「次のお客様ですか?」
「はい。」
「今度は町工場です。」
津森は思わず笑った。
「また人手不足ですかね。」
池元も笑顔で立ち上がる。
「たぶん。」
「でも。」
「本当の相談は、別にあるんでしょうね。」
二人は店を出た。
誰かを変えに行くわけではない。
答えを教えに行くわけでもない。
その会社が、本当に目指したかった未来を、一緒に見つけるために。
そんな二人の後ろ姿を、午後の日差しが静かに照らしていた。