第 10 話
制度は、思ったよりも静かに動きはじめた。
最初に手を挙げたのは、森田静江だった。「フルタイムは、もう膝が保たないのよ」と、いつもの強がりを少しだけほどいて。週三日、午前だけの短時間正社員。担当は、新人の教育と、利用者一人ひとりの記録の見守り。長く現場を見てきた目が、いちばん活きる役割だった。
「不思議なものね」ある朝、森田が佳代に言った。「時間は減ったのに、辞めなくてよくなったら、なんだか前より張り合いがあるのよ」
その言葉に、佳代の心が動いた。
もっとも、二人の時間が減っても、現場が回らなくなることはなかった。むしろ、宮本が心配していたのは、その逆のほうだった。ベテランに二人まるごと辞められることこそ、施設にとっては最大の痛手なのだ。役割を組み替えて、森田には新人教育と記録の見守りに専念してもらうと、若手の独り立ちが早まり、確認漏れも減った。長い目で見れば、手は増えたようなものだった。「頭数をそろえること」と「戦力がそろうこと」は、同じではない。宮本は、今回のことで、そのことをはっきり学んだ。
佳代自身も、宮本と池元と何度も話し合った。娘の受験が終わるまでの二年、母の受診に付き添える曜日を外して、週三日の短時間正社員として残る。責任のある担当は持つ。ただし、時間ではなく役割で。──辞める、と決めていたはずの手が、契約書の上でしばらく止まった。
「いいんでしょうか、こんな中途半端な形で」
「中途半端じゃありません」池元が言った。「あなたが十年かけて積んだものは、時間を半分にしても、半分にはならない。むしろ、限られた時間の中でこそ、それが際立つんです」
佳代は、ペンを取った。
その晩、佳代は食卓で、母と娘に短時間正社員のことを話した。
「じゃあ、お母さん、仕事、やめないの?」結衣が、意外そうに顔を上げた。
「うん。日にちは減らすけど、続けることにした」
「……ふうん」結衣はそれだけ言って、また問題集に目を戻した。でも、その横顔が少しだけほどけているのを、佳代は見逃さなかった。やめてほしくなかったんでしょう、とは、お互いに言わなかったけれど。
敏子が、味噌汁をすすりながら言った。「佳代は、昔から、人の世話をするのが好きな子だったものねえ」
その日の母は、娘の仕事を、ちゃんと覚えていた。
美咲は、そんな二人を近くで見ていた。ある日、森田の記録の付け方をのぞき込んで、思わず声をあげた。「森田さん、この利用者さんの“昔の話”のメモ、すごい。私、毎日見てるのに、こんなこと気づかなかった」
「毎日見てると、かえって見えなくなるのよ」森田が笑った。「たまに来るからこそ、変化に気づくこともある。あんたが言ってた“週2なんて無責任”ってやつ、あれ、半分は当たってて、半分は外れてたのよ」
美咲は、ばつが悪そうに、でも少しだけ嬉しそうに笑った。
短時間正社員として、はじめて出勤した日。ホールに入ると、梅村トメさんが、いつものように顔を上げた。
「あら、佳代さん。今日は、来てくれたのね」
名前を、呼ばれた。日にちも曜日も、トメさんにはもうわからない。それでも、佳代がしばらく顔を見せなかったことを、どこかで覚えていたのかもしれない。
「はい、梅村さん。これからも、来ますよ」
「よかった」トメさんは、子どものように笑った。「あなたがいてくれると、なんだか、安心するの」
その一言に、佳代は、胸の奥が熱くなった。辞めていたら、この「よかった」は、聞けなかった。窓の外の光が、トメさんの白い髪を、やわらかく照らしていた。
送迎車が、今日も利用者を迎えにいく。その笑い声を聞きながら、佳代はふと思った。あの日、書類の山と笑い声のあいだは、あんなに遠く感じたのに。──いまは、少しだけ、地続きになった気がする。
辞めさせないための仕組みではなかった。辞めなくてもいい選択肢を、ひとつ増やしただけだった。それだけのことで、こんなにも人の顔つきが変わるのかと、佳代は静かに驚いていた。