第 6 話
その電話は、送迎の準備をしている最中にかかってきた。
母の通うデイサービスからだった。敏子が、トイレの前で転んだという。大きな怪我ではないが、腰を打ったので、念のため病院で診てもらったほうがいい、と。
佳代は、受話器を握ったまま、一瞬、目の前が暗くなった。今日は日勤で、代わりのきかないシフトだった。午後の入浴介助も、レクリエーションも、自分が回すことになっている。
「……すみません、母が。少しだけ、抜けさせてもらえませんか」
宮本施設長は、事情を聞いてすぐにうなずいた。「行ってやれ。こっちは森田さんと美咲でなんとかする」
ありがたかった。ありがたかったけれど、施設を出て駆けだしながら、佳代の胸には、別の重たいものが広がっていた。──また、迷惑をかけた。こんなことが、これからも続く。
病院で、敏子はベッドの上で、ばつが悪そうに笑っていた。「ごめんね、佳代。忙しいのに」
「もう、気をつけてよ」
「わかってるわよ。……あなた、仕事は?」
「大丈夫。抜けてきた」
「あらあら」敏子は、少し悲しそうな顔をした。「お母さんのせいで、佳代の仕事に、ご迷惑ばっかりかけて」
その一言が、いちばん、こたえた。母は、迷惑をかけていることを、ちゃんとわかっている。わかっていて、それでも、体は言うことをきかない。
レントゲンの結果、骨に異常はなかった。打撲だけで済んだ。それでも医師は言った。「これから、こういうことは増えていくと思います。ご家族の見守りが、もう少し必要かもしれませんね」
もう少し。──その「もう少し」が、いったいどれだけの時間と、どれだけの自分を必要とするのか。
夜、家に帰って、佳代はひとり、台所に立った。母は薬を飲んで、もう眠っている。二階では、結衣が受験勉強をしている。
自分が倒れたら、この家は、回らない。
来月のシフト表を思い浮かべる。母の受診と、結衣の面談と、夜勤とが、容赦なく重なっていた。このまま走り続けたら、どこかで、自分がぷつりと切れてしまう。そんな予感がした。
──もう、辞めるしかないのかもしれない。
その夜、佳代は、はじめてはっきりと、そう思った。窓の外の街灯が、涙で、にじんで見えた。