福祉・介護士編|第2話 朝と夜のあいだで

福 祉 ・ 介 護 士 編

第 2 話

朝と夜のあいだで

朝は、いつも時間との追いかけっこだ。

六時に起きて、母・敏子の朝食をつくる。味噌汁は薄味に、魚は骨をていねいに取る。「自分でできるわよ」と言いながら、敏子の手は、もう箸を長くは握っていられない。数年前に転んで足を悪くしてから、母は目に見えて小さくなった。週に三日、近くのデイサービスへ通っているが、そのない日は佳代が見る。

「今日は、デイの日?」

「うん、お母さん、今日は行く日。私も仕事だから」

「あら、佳代も働いてるの。えらいわねえ」

毎朝、同じ会話をする。母は、娘が二十年以上この仕事を続けてきたことを、ときどき忘れる。それでも「えらいわねえ」と言ってくれる声は、昔と同じ、やわらかい声だった。佳代は、その一言で、なんとか一日を始められる気がした。

二階から、娘の結衣が下りてくる。中学三年、受験生だ。

「お母さん、上履き洗ってくれた?」

「あ……ごめん、忘れてた。今日中にやる」

「もういい、自分でやる」

結衣は不機嫌そうに、それでも手際よく自分でパンを焼く。塾のある日は、帰りが遅い。三者面談の日程表が、冷蔵庫にマグネットで留めてある。母の受診、娘の面談、自分のシフト。三つのカレンダーが、頭の中でいつも重なり合って、ぶつかっていた。

二人を送り出して、自分も家を出る。駅までの道で、ふと足が止まる朝がある。──あと何年、こんなふうに走り続けられるだろう。

施設に着けば、そこにはまた別の「家族」がいる。

「佳代さん、おはよう」

デイサービスのホールで、まっさきに声をかけてくるのは梅村トメさんだ。八十七歳。少しずつ記憶があいまいになってきていて、昨日のことは覚えていない日も多い。それでも、佳代の名前だけは、なぜか忘れずにいてくれる日が多かった。

「梅村さん、おはようございます。今日は顔色がいいですね」

「そう? あのね、今朝ね、いい夢を見たのよ。……なんの夢だったかしら」

トメさんは、ふふ、と笑う。忘れてしまったことを、悲しむのではなく、笑う。その笑い方が、佳代は好きだった。

トメさんは若い頃、小学校で長く教えていたという。数字も日付ももう危ういのに、子どもたちに教えた歌だけは、体のどこかに残っていた。

その日、昼下がりのレクリエーションで、佳代が古い唱歌のCDをかけたときだった。「夕焼小焼」のメロディが流れると、うとうとしていたトメさんが、ふいに背筋を伸ばした。

「……ゆうやけ、こやけの、あかとんぼ」

しわがれた、けれど確かな声だった。まわりの利用者も、つられて口ずさみはじめる。ホールが、いつのまにか小さな合唱になっていた。トメさんは、指揮でもするように手を動かしながら、ずっと歌っていた。歌詞を、一言もまちがえずに。

歌が終わると、トメさんは佳代のほうを見て、言った。

「先生、いい歌でしょう。……あなた、いい先生ね」

佳代のことを、教員だった頃の同僚と思っているのかもしれない。それでも、よかった。トメさんの中の、いちばんいい時間のなかに、自分がまぎれこめたのなら。

その夜、家に帰って、母の背中をさすりながら、佳代は思った。──母も、いつか私の名前を忘れるのかもしれない。トメさんが、娘さんの名前を忘れてしまったように。

だからこそ、と思う。覚えていてくれるうちに、呼んでもらえるうちに、そばにいたい。それは母にも、トメさんにも、同じ気持ちだった。

辞めたいわけじゃない。ただ、この身体はひとつしかなくて、時間は、どうしても足りない。

台所の窓に、自分の疲れた顔が映っていた。その向こうで、結衣の部屋の灯りは、まだ遅くまでついていた。

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