プロローグ
「キャリアパス加算、処遇改善加算、特定処遇改善加算……。とれるものは、全部とりたい」
宮本俊明施設長は、デスクに積み上がった申請書類を前に腕を組んでいた。人件費は増える一方。だが、介護報酬は国が決める公定価格だ。飲食店のように「値上げします」というわけにはいかない。利用者の負担割合も法で決まっている以上、施設の一存で利用料を上げることもできない。単価を動かせないなら、残された道は、要件を満たして加算を積み増すことくらいしかなかった。
「でも施設長、これ……結局は雛形に名前を入れ替えて出すだけですよね」
事務員が苦笑まじりに言う。「職員のキャリア形成って言われても、現場にそんな余裕、ありませんよ」
宮本は言葉に詰まった。たしかにそうだ。国が求めるキャリアパス要件といっても、形式的な研修計画や面談記録を残せば算定はできる。周りの施設も、ほとんどが雛形のコピペで通していると聞いていた。
「市役所に確認しても、はっきりしないんですよね。うちも国から言われてて、って、担当の人も電話口で曖昧に答えるだけで」
現場も、それを管理する行政も、制度の本当の意味を誰もつかめていない。
その夕方、職員休憩室では、介護士の佐々木佳代がため息をついていた。手元のスマートフォンには、母が通うデイサービスからの着信履歴。来週は娘の三者面談で、その翌週には母の受診の付き添いがある。シフト表の自分の欄を見つめながら、佳代はぼんやりと考えていた。──このまま、フルタイムを続けられるだろうか。
「加算でお金が入っても、私たちがどう働き続けられるかなんて、誰も考えてない気がする」
隣に腰かけた森田静江が、紙コップのコーヒーをすすってつぶやいた。「結局はボーナスがちょっと増えるだけよね。キャリアパスって言われても……どういうことなのかしら」
窓の外では、送迎車に乗り込む利用者と、その家族が笑い合っていた。その姿を見ながら、二人は胸の奥に小さな疑問を抱えていた。
──加算は、いったい誰のためにあるのだろう。