「死」こんなところからも、「生きるとは」「働くとは」、「幸せとは」を考えた

 

2020年12月に読んでいたのは、

死の講義 死んだらどうなるか、自分で決めなさい

 橋爪大三郎著 ダイアモンド社

 

という本。

この本がきっかけで、宗教と死について考えていました。

 

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「生きる」は体験できるけれど、「死ぬ」は体験できない。

だからわからない。

 

大昔は、やっぱり死ぬのが怖くて、恐ろしくて、小さな集団・村で考えていた。

 

「死んだらなくなるんじゃね?」

「違うのもの生まれわかるんじゃね?」

「違う世界に行くんじゃね?」

 

小さな集団は、比較的同じ考えだから「そんなもんか」で良かった。

「長老がそう言ったから」で事足りたw

 

それが移動できる範囲が広がって影響も大きくなり、集団が合体して、吸収して、規模が大きくなると、死への考え方が統一されて宗教化していく。

宗教=文明である。

 

キリスト教 > ヨーロッパ

イスラム教 > イスラム

ヒンズー教 > インド

儒教   > 中国 (宗教?w)

仏教   > アジア一部

 

ということで、それぞれを見ていくことにしよう。

 

 

【一神教】

一神教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。

 

 ・人間は神が作った。

 ・世の中みんな神が作った。

 ・神に体を与えてもらっている。

 ・死んでも死なないで復活する。

 ・死んではいるけど、復活の時を待っている。

 ・復活したら死なない世界に行ける。

 

一神教に死者の国はなくて、復活するまではずっとどこかで待っている。

体は神からの借り物というところまではほぼ一緒。

 

さてこの3つの宗教の大きな違いとは?

 

・ユダヤ教

ユダヤ人だけが救われる。

救われたいならユダヤ人になればいい。

 

・キリスト教

ユダヤ人じゃなくても、神を信じていれば救われるんじゃね?

でも結構規律があるよ。

離婚しちゃだめとかね。

 

・イスラム教

規律も(キリスト教に比べたら)ゆるくて、お祈りしておけば救われるんじゃね?

 

厳しめの決まりは時代を越えて、みんなを巻き込むために少しずつゆるくなっていく(これは仏教の宗派にも言えるw)。

 

 

【多神教・ヒンズー教】

因果論、つまり原因があり結果があるのがヒンズー教。

 

 ・宇宙すべてが私に影響している。

 ・私が全てに影響している。

 ・人間が宇宙であり、宇宙が人間である。

 

なので瞑想すると自分が見えてきて、宇宙のすべてが分かる。

それが悟る(覚る)こと。

 

 ・悟るまでは死ぬと生まれ変わる。

 ・輪廻する。

 ・行いが良ければカースト上位に行けるかもしれないし、行いが悪ければ下位に落ちるかもしれない。

 ・悟ると輪廻から外れて天上に行く。

 

因果論だけあって、真理追求を考える。

 

 

【多神教・仏教(日本以外)】

ヒンズー教から派生したのが仏教。

 

 ・瞑想して、悟れば仏になる。

 ・もう輪廻しなくなる。

 ・輪廻しないということは、存在しなくなる。

 ・ただ、悟って仏になっても、人間と生き続ける。

 

釈迦は死んで存在しなくなり永遠のブッタになった。

悟りを開いたら仏になれる。

仏になると、いろいろなブッタになる。

 

そこに到達するために、さまざまな方法で修業をする。

そして、悟りを開いた仏は、仏国土・極楽に行ける。

悟りを開かなければ輪廻する。

 

修行する(原因)>悟る(結果) 

 

根底にはヒンズー教の因果論がある。

修行には、密教や、座禅を中心とする禅宗がある。

 

【儒教儒学・中国】

儒教は神を信じない。

儒教はほぼ政治学。

 

中国は大きな人口を抱えて、北の騎馬民族を恐れながら生活していたから、国としての統制を取る強力な国体制が必要だった。

そのための儒教だった。

 

皇帝が中心にいる。

そして多くの人口を抱え、農業を中心とした国をまとめるために儒教が発達した。

 

忠孝(忠:皇帝を敬い忠誠心を誓う。孝:一族の長老を敬い、親を敬う)なので、国をまとめてもらうためであれば、多少の皇帝のワガママは許されるw

 

さて死をどう考えるかというと、死後は知ったこっちゃないw

なぜなら、税金を払わない人は用なしだから。

儒教は、宗教というより政治学に近いというのはこのためである。

 

今の中国共産党の宗教禁止も似たようなもの。

だから儒教は、儒学とも言う。

でも、中国人も死は気になる。

なので、補完するために仏教や道教がある。

 

道教には、輪廻(人間界だけでなく、修羅・餓鬼・畜生・地獄も含む)があり、そして地獄の死者の国がある。

死者の国では死者として生きていくことになる(日本でいうところの黄泉の国)。

 

【日本人・神道?仏教?】

古事記によると、死者は黄泉の国に行く。

しかもイザナミは、神でありながら死ぬ。

一神教の神は絶対に死なないが、日本の神は死ぬのである。

 

神話による神道の考え方がある中、538年に仏教が伝来する。

ただしこの思想は、先進国・中国の政治とセットで入ってくる。

 

ココから先は、天皇・仏教・摂関と三角関係の政治の花形に。

あまりにも仏教が力をつけすぎたので、政治とは程遠い仏教の教えだけを最澄と空海に留学させて、権力から遠ざけるw

 

神道において、死は穢れだとする。

仏教は合理主義(因果論)で、死体を恐れない。

葬式をやらせるのに丁度いい。

だから日本では、葬式を担当するのが仏教になった。

 

神々を祀る神道と真理を悟る仏教が、平安時代に歩み寄り始めた。

仏教(インド)の菩薩たちが日本に降り立って神々になった話といっしょくたになった(神仏習合)。

 

一神教でもあったが、最初は厳しい教え・しきたりや修行が唱えられていた。

でも広まるにつれて規律が柔らかくなる。

 

 ・念仏を唱えれば救われる。

 ・座禅をすれば救われる。

 

つまり仏になって、極楽浄土に行ける。

そのほうが伝えやすいし、民衆を巻き込みやすい。

 

もともと宗派は学説と一緒で、大学で学科やゼミの指導教官が違うぐらいの関係、こんなこといっている人がいるっていう研究レベル。

だからお互いに、認めることができる。

(ただし法華宗は除く。法華経は、他を認めないので)

 

江戸時代に入ると「寺請制度」ができる。

村・部落の行政は寺に任され、住民票=過去帳、教育機関=寺子屋、町の相談役=住職と役割が決められた。

それぞれの部落でそうなると、すべての宗派が統一された。

 

死後の世界がなかった禅宗も、すべての宗派が、死んだら三途の川を渡り、あの世に行く(神道の黄泉の国なのか道教の死者の国なのか仏教の地獄なのかはよくわからない)。

 

戒名をもらって仏になっていれば極楽浄土に行く。

法要も戒名も仏教にはなかったけれど、今でもこの考え方が多いのでは?

 

寺請制度によってお寺は布教NGになった。

なので、その部落を守るためだけに存在する。

まあ明治になって廃仏毀釈となり、神道を中心として、国を統一させるために使われたりするのであるが。

 

また、江戸後期に国学が流行り、霊という考え方が出てくると、黄泉の国に行くのではなくてそのへんを漂っているというイメージが浸透する。

霊となって子孫を見守る。

 

さらに国のために身を捧げた人は英霊となる。

戦死者は家で戒名を付けられ仏壇に位牌として置かれる一方で、同じ人が国の英霊として靖国神社に祀られる。

この時代の日本人には、2つの死がある。

 

ここで面白いのは、脳死に対する考え方。

一神教では、体は神からの借り物なので、神から与えられた本人が良ければ、臓器提供が許される。

家族の入る隙間はない。

 

しかし日本では、家族の意思も尊重される。

これは場を重視する日本ならではかもしれない。

 

【じゃあ、どう死を考えるか?】

いろんな考え方があるのは今まで述べた。

その中で「自分はどう考えるか」を考えていてもいいのではないかという結論に行き着いた。

 

・他の人間や動物に生まれ変わる→インドの宗教(輪廻)

・別の世界で永遠に生き続ける→一神教

・すぐそばで子孫を見守る→日本の宗教

・子孫の命の中に生き続ける→儒教・道教?

・自然の中に還る→ユニタリアン

・完全に消滅する→自然科学、唯物論

 

一つでもいいし、いいとこ取りでもいいw

 

自分が死ぬということは、周りの人を認識している自分もいなくなる。

なので、自分が存在しなくなると周りも存在しなくなるという考え方もある。

つまり、自分の死=世の中の死。

 

生きるために死を考える。

今を楽しむために死を考える。

そして、いろんな考え方があることも理解しよう。

受け入れよう。

 

そうすると、争いごともなく楽しい。

どの宗教を選んでも死は来る。

勝手に来る。

でもそういう考え方や生き方があるのを知ることで、人生が豊かになる気がする。

 

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私がこの本を手に取ったのは、この年の9月に脳出血で倒れたからかもしれません。

でも、それをきっかけに新しい知識や考え方が生まれて嬉しかったのです。